※本記事の制度・審議状況は2026年7月16日時点の情報です。最低賃金の2026年度改定額や各制度の要件は、その後の答申・改正で変わる場合があります。

最低賃金の引き上げが、ここ数年、これまでにない勢いで続いています。2025年度は全国加重平均で過去最大の上げ幅となり、2026年度も、いままさに国の審議会で改定に向けた議論が進んでいるところです。人件費は、正社員の給与のように固定費化しやすい一方で、時給や残業代のような変動要素も含みますが、多くの中小企業にとって短期間には削減しにくい継続的なコストです。その水準がじわじわと切り上がっていくことは、経営にとって静かで、しかし確実なリスクだと言えます。この記事では、最低賃金の最新の動きを出典付きで整理したうえで、「保険で移すことができないリスクにどう備えるか」というリスクファイナンスの視点から、価格転嫁と生産性向上、そして手元資金という備え方の枠組みをお伝えします。答えを渡すのではなく、自社で考えるための足場を渡すことが、この記事の目的です。

最低賃金は「過去最大」の引き上げが続いている

まず、事実を数字で確認します。厚生労働省の中央最低賃金審議会は、2025年度の引き上げの目安を、A・Bランクは63円、Cランクは64円と示しました。これを目安どおり各都道府県に適用すると、全国加重平均の上昇額は63円、最低賃金額は1,118円となる計算でした。その後、各都道府県の審議を経て決まった実際の全国加重平均は時給1,121円となり、前年度(1,055円)から66円の引き上げとなりました。この66円は、全国加重平均の引き上げ額として、目安制度が始まった1978年度以降で最大です。この結果、すべての都道府県で時給1,000円を超えました(厚生労働省)。

この流れは2026年度も続く見通しです。2026年度については、2026年6月26日から中央最低賃金審議会で目安額の審議が始まっていますが、2026年7月16日時点では、具体的な金額はまだ決まっていません。そのため本記事では金額を断定しません。あわせて、政府は全国平均1,500円という目標を掲げています。2026年6月30日の日本成長戦略会議で示された「日本成長戦略(案)」では、「2020年代に全国平均1,500円」という目標に向けて努力を続けつつ、労働生産性の継続的な向上を図ることで、「遅くとも2030年代前半できる限り早期に」全国平均1,500円を達成するとしています(内閣官房。現時点では「案」の段階です)。この水準を数年で目指すとすれば、毎年かなりの上げ幅が続くことになります。方向としては「人件費は上がり続ける」と見て備えを考えるのが自然でしょう。

最低賃金は「時給の下限」です。パートやアルバイトだけの問題ではなく、下限が上がれば、それに近い賃金で働く従業員全体の給与、さらに社会保険料などの会社負担にも波及していきます。最低賃金の改定は、賃金台帳の一部ではなく、人件費全体を押し上げる起点になり得ます。

人件費は保険で移しにくい ― 「軽減」と「保有」を組み合わせる

リスクファイナンスの中心は、保険料などを払って損失を保険会社などに移す「①移転」と、残った負担を手元資金などで自社が引き受ける「②保有」です。これに、損失の発生や影響そのものを小さくする「③軽減(厳密には保険等の財務的手法ではなく、リスクコントロールの領域)」を組み合わせて考えるのが実務の基本です。

火災や事故と違い、人件費の上昇は「突発的な事故」ではありません。制度に沿って、社会全体で継続的に発生するコストです。そのため、火災保険のように「保険で丸ごと移転する」ことにはなじみません。基本は、価格転嫁や生産性向上によって利益への影響を「軽減」し、それでも残る負担を手元資金で「保有」する、という組み合わせになります。ここが、これまで本ブログで扱ってきた自然災害やサイバーのリスクとは大きく異なる点です。

たとえば時給が60円上がる従業員が5人、1人あたり月120時間働くとすると、賃金だけで年間およそ43万円増えます(60円×120時間×12か月×5人)。ここに、賃金額に連動する労働保険料や、加入状況・標準報酬月額の変更に応じた社会保険料の会社負担、近い賃金で働く他の従業員の給与見直しが加わる場合があります。「数十円だから小さい」とは限りません。

「軽減」――価格転嫁と生産性向上で利益への影響を小さくする

上がった人件費の影響をどう和らげるか。その王道のひとつが、価格への転嫁です。ただ、これが簡単ではないことは、多くの経営者が肌で感じているはずです。国も、賃上げ原資を取引価格に反映しやすくするため、公正取引委員会などが「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」を示しています。2025年12月26日には取組事例の追加などを含む改正内容が公表され、下請法(取適法)の改正に合わせて2026年1月1日付けで改正されました(公正取引委員会)。

公正取引委員会の令和7年度の特別調査(2025年12月公表)では、労務費の「要請受諾率」は67.4%となり、前年度から5.0ポイント上昇しました(公正取引委員会)。ただし、この数値は、受注者が価格転嫁を要請した額に対して、実際に取引価格が引き上げられた金額の割合です。上昇した労務費の全額のうち67.4%を転嫁できた、という意味ではなく、要請額そのものが相手に受け入れられそうな水準に抑えられている可能性もあります。公正取引委員会も、転嫁は一定程度進んだものの、サプライチェーン全体ではなお道半ばと評価しています。転嫁できるかどうかは、業種・取引段階・取引先との関係・契約条件によって大きく異なります。だからこそ、値上げ交渉と、転嫁しきれない負担に備える手元資金の確保を、両輪で進めることが現実的です。

もうひとつの向き合い方が、同じ人数でこなせる仕事を増やす、あるいは省力化する「生産性向上」です。設備投資やITの導入で一人あたりの生産性が上がれば、賃金が上がっても、利益や資金繰りへの影響を和らげやすくなります。生産性向上は最低賃金そのものの上昇を止めるものではありませんが、上昇の痛みを小さくする有力な手立てです。

軽減を後押しする「業務改善助成金」(令和8年度)

この設備投資を後押しする制度が、厚生労働省の「業務改善助成金」です。これは、事業場内で最も低い賃金(事業場内最低賃金)を引き上げるとともに、生産性向上に資する設備投資などを行った中小企業・小規模事業者に、その費用の一部を助成するものです。大企業と密接な関係にある「みなし大企業」は対象外で、解雇や賃金引下げなどの不交付事由がないことなどが要件です。また、申請事業場の事業場内最低賃金が、令和8年度に改定されるその都道府県の地域別最低賃金を下回っていることも対象要件です。年度によって内容が変わる点にも注意が必要で、令和8年度(2026年度)は、原則として、雇入れ後6か月を経過し、週所定労働時間が20時間以上で雇用保険に加入している対象労働者について、事業場内最低賃金を50円以上引き上げることが基本要件となり、50円・70円・90円の3つのコースが設けられています。助成率は、引上げ前の事業場内最低賃金が1,050円未満なら5分の4、1,050円以上なら4分の3です。助成の上限額は引上げ額や対象人数等に応じて決まり、通常は最大450万円です。事業場内最低賃金が1,050円未満であるなどの特例事業者が、10人以上の労働者の賃金を90円以上引き上げる場合には、最大600万円となります。申請受付は2026年9月1日からで、申請期限は、各都道府県の地域別最低賃金の発効日の前日か2026年11月30日のいずれか早い日です。一方、賃金の引上げは、2026年9月1日から地域別最低賃金の発効日の前日までに行う必要があります。設備投資や賃金の引上げは交付決定の後に行うのが原則で、引上げ後の事後申請は認められないため、申請と賃金引上げの順序にも注意が必要です。活用を検討する際は、必ず最新の交付要綱・申請マニュアルを確認してください(厚生労働省)。

賃上げは「コスト」であると同時に、採用や定着のための「投資」でもあります。特に人手が集まりにくい地域や業種では、賃金の低さがそのまま人材確保の弱点になりかねません。負担への守りを固めつつ、賃上げを人が集まる会社づくりの一手として使う。この両面で見ておくと、判断がぶれにくくなります。

「保有」――転嫁しきれない負担に手元資金で備える

価格転嫁や生産性向上でも吸収しきれない負担は、最終的に自社で引き受けることになります。これがリスクファイナンスでいう「保有」です。「いつ・何人分・いくら増えるのか」を早めに試算し、手元資金や融資枠といった資金の余力のなかに、あらかじめ織り込んでおくことが、あわてないための第一歩になります。手元資金は、人件費が想定より早く伸びたときに「時間を買う」ための緩衝材になります。どこまでを軽減で抑え、どこからを保有で受け止めるのか――その線引きを一度描いておくことが、備えの設計図になります。

石垣島・離島の視点

最低賃金は都道府県ごとに定められています。沖縄県の最低賃金は、令和7年度に952円から1,023円へ71円引き上げられ、令和7年12月1日から発効しました。全都道府県で1,000円を超えた一方、沖縄は引き続き全国で最も低い水準にあります。離島では仕入れや物流のコストが高く、価格転嫁の余地も本土とは条件が異なります。人件費が上がっても、それを価格に乗せきれず、かといって人手も簡単には増やせない――そんな二重の制約のなかで、生産性を高める投資や助成金の活用が、他の地域以上に効いてくる場面があります。所得水準を上げていくうえで、最低賃金の上昇はむしろ追い風にもなり得ます。だからこそ、その原資を自社でどう生み出すかを、早めに設計しておく価値があります。

自社で書き出してみる ― 5つの問い

  1. 自社で最も低い時給(事業場内最低賃金)はいくらか。最低賃金の改定で、その差はあと何円あるか。
  2. 最低賃金に近い賃金で働く従業員は何人いて、時給が数十円上がると、労働保険料や社会保険料の増加も含め、年間の会社負担はいくら増えるか。
  3. その増加分を、価格転嫁や生産性向上でどこまで軽減できそうか。転嫁が難しい取引先はどこか。
  4. それでも残る負担を吸収できるだけの手元資金(月商の何か月分か)があるか。
  5. 省力化や生産性向上のために検討したい設備投資はあるか。業務改善助成金など、使える制度はないか。

まとめ

最低賃金は2025年度に過去最大の引き上げ額となり、2026年度についても改定に向けた審議が進んでいます。人件費の上昇は、一般的な保険で直接移転しにくいコストです。だからこそ、①価格転嫁や生産性向上によって利益への影響を「軽減」し、②助成金などを活用して対策投資の負担を抑え、③それでも残る負担を手元資金や資金調達余力で「保有」する――この組み合わせを、自社の状況に合わせて設計しておくことが要になります。上がり続ける下限は避けられない前提として受け止め、そのなかで会社の体力をどう保つか。その設計図を、いまのうちに一枚描いておきましょう。

参考資料

  • 厚生労働省「令和7年度地域別最低賃金全国一覧」「全ての都道府県で地域別最低賃金の答申がなされました」(2025年度の目安・実績)
  • 厚生労働省「中央最低賃金審議会(目安に関する小委員会)」資料(2026年度の審議)
  • 厚生労働省「令和8年度業務改善助成金のご案内」
  • 公正取引委員会「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」
  • 公正取引委員会「令和7年度価格転嫁円滑化の取組に関する特別調査」(2025年12月公表。労務費の要請受諾率67.4%)
  • 内閣官房「日本成長戦略(案)」(2026年6月30日。全国平均1,500円の達成時期の方針)

※本記事の数値は執筆時点(2026年7月16日)で確認できる公表資料に基づきます。最低賃金の2026年度改定額は本記事執筆時点で確定していません。制度・要件・金額・審議状況は改定される場合があるため、実際の対応にあたっては必ず最新の一次情報をご確認ください。

本記事は一般的な情報提供であり、個別の保険契約・税務判断・資金繰り・投資判断等を助言するものではありません。実際の判断は、自社の状況に応じて、保険会社・保険代理店・保険仲立人・社会保険労務士・税理士等の専門家にご相談ください。

当研究所では、人件費の上昇を見据えた資金繰りやリスクへの財務的な備えについて、初回のご相談を承っています。「自社の固定費の体力を一度整理したい」という段階でも、どうぞお気軽にお声がけください。